学習実践 中学校
“援助交際”を題材に論争し 「性は人権」について深める
原田 瑠美子 Harada Rumiko 中学教諭
 
 
 ■中・高生のセックスは非行?
 

 私が性教育と出会って、15年になる。自分の担任するクラスの生徒が妊娠したことがきっかけであった。
 私の勤務する学校は東京の世田谷にある私立の女子校だが、私立の女子校においては生徒の「妊娠」は「タブー」である。そもそも親はそういう「間違い」が起きないようにと娘を女子校に入学させたのだし、「妊娠」の事実が公になれば生徒募集上、きわめてマイナスになる。したがって、生徒が妊娠したり、中絶したりした事実を知った教師は、そのことが公にならないようにと苦慮する。そして自主退学を進めるなどして、「音便」に処理しているのである。だが、私は生徒から妊娠の事実と出産の決意を知らされたとき、なぜか感動した。私を信頼し素直に打ち明けてくれたこともあるが、同じ女性としての共感からだったと思う。
 その生徒は退学したいと私に告げたが、私は反対した。なぜ「妊娠」が非行扱いされなければならないのか。まして彼女の場合、相手との合意のもとで自らが望んだ妊娠だったのだ。民法で女性は16歳で結婚することが認められている。だから本人に勉強の意志があれば、学校を続けることが保証されるべきである。いったん休学して、育児のメドがついたら復学するようにと私は彼女を励ましたが、勉学と育児の両立は難しいとのことで、結局彼女は退学していった。
 彼女は当時16歳、相手の彼は18歳だった。こんな若さで結婚して、子どもを育てたいという気持ちが起きるのだろうか。私は最初のうち、二人の気持ちがなかなか理解できなかった。しかし、二人から詳しい話を聞いていくうちに、私がそれまで「性」を年齢という物差しで区切ってとらえていたことに気づかされた。
 人間は生まれてから死ぬまで、ずっと性的な存在であり、若くとも、年老いても「性」はその人の基本的人権として尊重されるべきだと考えた。そしてこの人間にとって大事な「性」について、学校の場で生徒たちともっともっと考え合っていきたい、そのためには自分自身の性意識を問い直し、人間の性について深く学びたいと考え“人間と性”教育研究協議会に入会したのであった。
 私は妊娠したその生徒とのかかわりを『16歳の母』という一冊の本にまとめ、その中で「性は人権である」と主張した。しかし当時は、中・高校生の性も人権だときっぱり言い切る人は少なかった。中・高生のうちから性体験を持ってしまうと勉強に差し支える、受験競争から落ちこぼれる、さらには望まない妊娠や中絶にもつながりかねないのだから、経済的に自立するまでセックスは我慢すべきである、といった論調がほとんどだった。
 “性教協”の夏のセミナーでも、1986年ころまでは「中・高校生のセックスをどう考えるか」などといったテーマで論議を闘わせていた記憶がある。
 だが、どんなに親や教師が子どもたちの性行動を管理・抑圧しようとしても、巷にあふれる性情報の中で、子どもたちの性行動はどんどん活性化していった。だとしたら、子どもたちを「性」から遠ざけるのではなく、むしろ性に対する正しい知識・認識を与えることによって、子ども自らが賢い判断ができるように育てることこそが必要である、という考え方へと変わっていった。そうした考え方を表す言葉として使われたのが「性的自己決定能力」である。
 「中・高校生といえども、性はプライベートなものであり、いつ、誰と、どんな関係を持つかは、本人の賢い判断と相手への思いやりに任せるしかない。生徒自らが賢い判断ができるよう『性的自己決定能力』を育てることこそが性教育の目標である」
 この言葉を山本直英氏から初めて聞いたとき、「そうだ!」と私はうなずいたことを覚えている。そして、この考え方にさらに理論的な肉付けをしたのが、女性運動の長年の歩みのなかで獲得された「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」と子どもを権利主体として位置づけた「子どもの権利条約」であったと私はとらえている。

 
 ■“援助交際”は性的自己決定?
 

 「私の体なんだから、私がどう使おうと私の勝手でしょ! 別にほかの人には迷惑をかけていないし、どこが悪いの?」
 “デートクラブ”や“援助交際”がらみで補導された少女たちは、ほとんどがこう開き直るという。中・高校生にも性の自己決定権を認めるなら、少女たちが自分のからだ(性)を自分の意志で自由に使う権利を否定することはできない。その意味で少女たちは“援助交際”という性行動を「自己決定」したことになる。だが、私の実感としては、少女たちの行動が主体的な権利行使であるとは到底思えなかった。
 この私のとまどいを解明する理論的根拠となったのが、「セクシュアル・ライツ」という新しい理念である。説明するまでもないが、この言葉は1995年、北京で開催された世界女性会議でEU(ヨーロッパ連合)から提起され、イスラム諸国やバチカンなどの反対にあって「北京宣言」に書き込まれなかったものの、性を人権として明確に位置づけたものであった。この「セクシュアル・ライツ」を構成する権利内容を考えたとき、性に関する情報、学習する権利がまず保証されなければならない。
 「自分のからだをどう使おうと自分の勝手」という少女たちは、本当に自分のからだや性について正確な知識や認識を獲得しうる学習を保障されてきたのであろうか。「自分のからだは自分自身のもの」「性=生はかけがえのないもの」という認識が育まれてきたのであろうか。
 私は現在、中学三年を担任しているが、その子どもたちが生まれたのは1982年。その前の年にビニ本の販売が始まり、アダルトビデオのレンタル店が登場している。そして、85年に「新風俗営業法」が施行された後はさらに多様な性風俗が出現するようになる。
 街のいたるところに性風俗の看板、電柱や電話ボックスにベタベタと貼られている売春広告、歩行者に配られるティッシュにはテレクラの宣伝、そしてコンビニで簡単に入手できるポルノ雑誌、大人向けの雑誌ばかりか少女雑誌にも、目を覆いたくなるほどの露骨なセックス描写……。年商10兆円といわれるほどに繁栄した性風俗の空気を吸って、今の中・高校生は育ってきたのだ。
 私は担任学年の生徒たちが中1の時に、「セックスという言葉から連想するものをイメージしてごらん」と言って、そのイメージを書かせたことがある。そのとき出てきた言葉は、「Hなこと、ホテル、裸、エロビデオ」などであった。ポルノ情報によって、性へのイメージが歪められているなとつくづく感じた。翻訳されないほどの正しい知識や認識を家庭でも学校でも学ぶ機会がないまま成長しも、性を商品化する社会の中を生きているのである。
 「お茶するだけでおこづかいがもらえる」「カラオケにつきあうだけでブランドものが手に入る」などなど、甘い情報が少女たちの行動を軽くしてしまっているのだが、実際に多くの危険が伴っている。話をするだけの約束だったのにホテルに連れ込まれ、ホテルの密室で暴力や辱めを受けたり、性感染症や望まない妊娠、さらには薬物の強要など、数え切れないほどのトラブルに巻き込まれている現実がどれほど少女たちに知らされているだろうか。
 こうした現況を考えると、「自分のからだを道使おうと自分の勝手」と主張し、“援助交際”をする少女たちは、真の性的自己決定能力を発揮しているとはいえないのである。

 

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