7月都議会における学校教育・性教育への不当な介入に関する声明
“人間と性”教育研究協議会幹事会
2003年7月7日
7月2日、東京都議会で行われた学校教育・性教育にかかわる一般質問(土屋たかゆき議員らによる)及び質問をめぐるやりとりは教育基本法が示した教育行政のあり方の原則をふみにじり学校教育に介入・支配しようとする不当な行いである。またそのやりとり中で私どもの研究会(以下、性教協という)を誹謗する発言も行われていることに対し、断固抗議するものである。
(1)教育基本法は第10条で教育行政のあり方を次のように示している。
「@教育は不当な支配に服することなく国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものである。」
「A教育行政は、この自覚のもとに教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」
言うまでもなくこれは戦前の教育への深い反省から導き出された戦後の教育の重要な原則の一つであり、ゆるがせにしてはならないものである。
教師は自分の目の前にいる子どもたちの人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民として育成するよう努めること、これこそが教育の仕事であることが第1条に示されている。そのために教師は自覚的に自らの教育的力量を高めるために研鑚を積むのであり、その自由もまた尊重されなければならない。
(2) 今回質問という形で取り上げられた性教育の「問題」はすでに本年1月来、一部新聞、あるいは週刊誌がセンセーショナルにとりあげたものと重なっている。私どもはすでにそれらの歪められた報道に対し反論と抗議を行ってきた。しかし今回のようにそれが議会で取り上げられ教育行政当局が一定の対応を確約し実行するなどということは先ほど述べた教育基本法の原則から認められるべきではない。なぜならそれは明らかに教育実践への権力の介入であり、教育内容の支配に道をひらくことになるからである。この問題に対し教育行政担当者、学校管理者がこうした教育への乱暴な侵害に対し、毅然とした態度をとることを強く要望する。
また議会発言の中で私ども性教協への誹謗中傷がなされているがこれも許しがたいことである。
(3)性教協は1982年に設立された民間の性教育研究団体である。以来21年、性教育の必要が叫ばれながら教員養成課程の中に明確に位置付けられていないばかりか、日常的に研修の機会が乏しい中で力を寄せ合って研修の場を提供し、わが国の性教育の普及推進のため微力ながら文字通り手弁当で力をつくしてきた。その場には教師のみならず医師、保健師など専門職の方たちや市民、父母の参加協力もあり貴重な研修の機会であったし、まさに子どもたちの未来に責任を負うとりくみであったと確信している。
またその中で2001年に『SEXUALITY』誌(エイデル研究所刊)を発刊し、そこに会員であるなしを問わず貴重な実践や研究を紹介し交流し、学びあう場としてきたのである。これまた誇りあるとりくみであった。この『SEXUALITY』誌には、現場の教師たちの工夫や努力によって教育実践として定着し、保護者もふくめて学習者にも受けいれられているとりくみが掲載されているのであるが、すでに掲載され多くの人たちに読まれどこからの抗議も非難もあったわけでない実践報告などに対し、今回の都議会ではまるで粗探しするかのように「問題点」をつまみ出し歪曲し、独断的解釈に基いた攻撃が行われた。
(4) 性教育を行う教師の中には保護者の要望を受けとめて授業参観を呼びかけ公開したり、ともに学び合う機会を設ける努力をしているものも多い。また雑誌掲載にしてもまさしく公開された授業、指導の取り組みそのものである。もしもそのとりくみに強い「問題」を感じ議会で取り上げねばならないほどのことであるなら、なぜ実際の授業を見学したり授業者と直接会ったり、学習者である子どもの意見や感想を聞いたりして確かめないのであろうか。そうした努力を通じて子どもや学校の現状などの理解もすすみ、より豊かな実践への道も探れるものである。ところがそうした努力もせず、提出させた書類、資料など見るだけでその授業やとりくみへの「判断」がなされようとしているのである。
子どもたちは明るく当たり前のこととして学んでいるのであり、性器を大切なからだの一部として偏見にとらわれず明るく受けとめているのである。自ら性を学ぶ機会の乏しかった大人たち、とりわけ男性たちがいわゆる“男性的”視線でもって性や性器などの絵や言葉を受けとめ騒ぎ立てる状況と性意識こそ問いなおされるべきではなかろうか。
しかもその資料提出にいたっては授業者、発表者に対し、時にはまるで被疑者を扱うように権力的にしかも性急に実行を迫るなど到底フェアな態度とはいえず異常であり異様であった。こうした一連のふるまいも「不当な支配」というべきものである。
(5) 授業は学校・教師が子どもに直接責任を負う形で行われるものである。それゆえにこそ教師は幅広い知見を得る努力とともに他の実践に学びながら懸命に自らの授業にとりくむのである。そしてどのような教材や授業資料を用意すべきか。こうした課題に多くの時間、エネルギーを注ぎこむのである。さまざまな障害とともに生きる子ども、子どもたちがおかれている現実の状況のもとで格闘している現場の教師をもっと信用し尊重すべきである。そして好ましい反応が得られなけばその改善にとりくみ、よりよい実践を生み出すための努力を続ける。子どもや保護者の要求に応えられず、支持を得られない実践は淘汰されていく。授業実践とはそういうものである。また授業で使われる教材は授業全体の流れの中に位置づき意味をもつものであって一つの教材、一つの言葉一つの場面だけを切り取って論評したり評価を下すなど、授業や教育活動に対する冒涜ではないか。
(6) こうした意味において今回の都議会での事態がどう展開するかは性教育だけの問題ではなく教育への権力の不当な介入、支配に道をひらくかどうかの問題であり、また教師の自主的研修をめぐる自由と抑圧の問題ともつながる重大な問題と私たちは考えている。
都民、市民のみなさん、都議会関係者のみなさん、性教育のみならず広く教育関係者のみなさん方に、教育基本法の精神を守り子どもたちの健やかな成長と豊かな性教育を発展させるためにともに立ちあがって頂くよう呼びかけるものである。
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